柴山水咲編
柴山さんのエリアでひと際目を引くテーブルを使った作品。そこには無数の目が並んでいる。柴山さんが通勤中や空いた時間に手鏡を見て描いた、自身の目だ。実際に会った柴山さんの目はたしかにあの小さな紙の中のもので、「本当にこの目を毎日描いていたんだな…」と思った。
目なら気軽に描けると思って。と話す柴山さん。日によっては数十枚と描いた目は主に2013年のものだそうだ。最近水彩カラーの目を描き足しあの数になっている。じっと見ていると、同じものをモデルにしているはずなのに少しずつ表情が、気分が違うのがわかる。写実的に描いたもの、空想も混ぜたものなど彼女にとっても「さまざまな目」があるらしい。わたしは不思議な形の机の上に並べられたそれをひとつずつ見ていった。そのうちに目の前の四角い紙たちが蠢く。そのざわめきは大きくなって、モザイク状に空間を侵食するのではないか…。とわたしは妄想した。
「この目、どこまでも増えて広がっていきそうですね…」
「そうですね…」
何の気なしに言った言葉に柴山さんは頷いてくれた。机が四角かったらそんな妄想しなかったんじゃないかという話。おおまじめに答えてくださる柴山さんにはなんとなく親しみをかんじる。
その横にはキャンバスの作品が3点。荒々しいドローイングの上に絵具が好き勝手に置かれている。正直に書くと、ほんとうに最初は何が描かれているのかわからなかった。様々な紫にオレンジっぽい線。絵具の垂れた跡。それがしばらく経つと山かな、風景かな、ああ人だ、と感じられるようになる、という感想。同時にあまり言葉にできない・したくない何かが湧き上がってくる。確かなのはわたしがその絵の色合いをとても素敵だと思ったことだった。
「これは…最初からこの完成形になるって決めて描いているんですか」
それは素直な疑問だった。参考にした風景があるとして、それとまったく違うものができあがっているのは間違いないように思えたからだ。
「それがね…まったくそういうのないんですよ。自分でそのときそのとき思っていることを描いてるっていうか」
「でも昨日の自分が思っていたことと今日思っていることって違うじゃないですか。だから何ができるかわからないし、作品にするのがむずかしくて」
キャンバスに描くのではなく壁に留めた布に描いているらしく、作品にするまでに「いらない部分は切っている」ことを教えてくれた。わたしが「好き勝手」と感じた自由な絵具づかいもまさしく「好き勝手」なのであって、そのとき彼女がほしい色だったのだろう。
「描いている文字も、風景を観たときに思ったこととか、描いているときに思ったことだったりします」
絵の中に紛れている文字も彼女の作品の一部だ。何色でどんな字で書いているか。読むとより作品に近づけるかもしれない。

壁を一枚挟んだエリアには茶色く濁った色彩で描かれた植物が鎮座する。
「…これは描いたあと色が変わる液体で描いた作品です、」

柴山さん特製液の茶色はイソジンから来るものらしい。イソジン。言われればたしかに見覚えのある色だ。しかしどんな色に変化するか柴山さんは把握しきらずに作品を作っていることになる。これはもう色が変化しきっちゃったやつですね、と柴山さんは黄色とピンクと紫で点々と彩られた絵を指した。さっきと打って変わってこのキャンバスには花や葉のドローイングがはっきりと残っているのだった。
「変化する、ってことは…柴山さんにとってはいつの時点の画面が作品になるんでしょう」
「…どうなんでしょうね…」
柴山さんはとても考えこんでいた。
「でもまあ…そのときそのとき、それがいいと思って描いたんだと思います」
最後までずっと丁寧な人だと思った。
柴山水咲の人物と植物展の作品たちは純粋にその絵の造形、色彩を楽しむこともできるが、「変化」をキーワードにしてみるとなんだか別の体験ができそうだ。
変わっていく色、変わってきた色。
彼女の中で変わった景色、その日そのときの彼女がみていた景色。
人間も人物も植物も変化する。当たり前のことだけれど、その変化にわたしたちはどれだけ機敏でいられるだろう。それに思いを馳せてみるのも一興かもしれない。
奈良田晃治編
わたしは奈良田さんのことを奈良田先生と呼んでいる。呼び始めてからしばらくして少数派と気づいたものの、なんとなく変えられないでいる。
先生の作品はわかりやすい。そう言ってしまうと無粋かもしれないが、とにかくそこに描いてあるものが明瞭だ。
どこか森のような場所で肩を組んでいる成人男性たち。日なたで談笑している男女ら。雄大な山、繊細な花。それらが切り貼りして作られたように存在している、不可思議な画面。

そんな先生の作品たちが作られるまでの行程は、ちょっと変わっている。
まず奈良田先生は絵を描く前に出かける。
「この絵、写真を元に描いてるんですよ」
お話を聞き始めて割とすぐ奈良田先生は言い出した。気が向いたときに近くのフリーマーケットに出かけては、「なんかいいな」と思った写真の束を買う。それがゼロ番の行程らしい。何十枚って写真がすごい安くで売ってあるんです、と嬉しそうに話す先生。
「なんとなくいい。って、たとえば何が良くて写真をえらぶんですか?」
「いや、うーん…何がいいとかは特に分からないですけど、『自然』な写真を選ぶようにしてます」
その「自然さ」へのこだわりは、人物そのものにも及んでいる。
「人間には顔があるじゃないですか。その顔の良し悪しで不自然か自然かが決まると思っているので…、筆の入れすぎには注意しますね」
植物には顔が無いから気楽、と先生は笑っている。「なんかいい」「自然」と思った、名前の知らない誰かを、できるだけ自然なまま描く。それが奈良田先生にとっての人物画。「自然」という言葉で少し共感できてしまうところ、ちょっとおもしろい。
植物については自分で山に足を運んでスケッチしたり、参考写真を撮ってきたりすることが多いそうだ。わたしはひと際目立つ、大きめのキャンバスいっぱいに描かれたアザミの絵をみた。最初に見たときから好きだったのだ。
「先生の作品、ちょっとステンドグラスみたいですよね」
先ほども「切り貼り」と書いたように、奈良田先生の絵は対象に関わらず区分けして描いてあるように感じられる。パズルのピースを嵌めたような、という表現が近いのかもしれない。それを聞いた先生は
「描くときはここの部分を描く、って分けて描いているので、そういう風に感じるのかもしれないですね」
と答えてくれた。なんだか秘密を当てられた気がして嬉しい。先生は続けた。
「ものを普通に見て描くと、輪郭線ってできないんですよ」
「たしかに…?」
記憶の中から教科書や美術館で見た絵を引っ張り出すと、写実的な絵であるほど線を描いてその内側を塗るなんてことはしていない。だが目の前にある先生の絵にはハッキリ輪郭の線が描かれていた。
「へえ…輪郭…」
「ちょっとイラストっぽいかもしれないですけど、そういうのも面白いと思ってます」
言われて初めて気づくことができた。
絵具の塗り方も少し不思議だ。モチーフを描く前にグレーなど暗色の絵具を一面塗ってから、上に絵具を乗せる。下の絵具をこそげながら本命を塗っている、というのが近い。描き始めたら小休止することはないそうで、もちろん絵のサイズにもよるが、完全に絵具が乾ききることが一度もないまま完成まで漕ぎつけることがほとんど。いわば絵具の乾燥を待たないことによって、絵の主導権みたいなものを、自分の手中に収めないようにしているのだ。
なんだか奈良田先生の人物を感じる。
「絵って、近くで見ると線の集まりというか平面状にみえて、外から引いて見ると立体が描かれてるように見えるんですよね」
話題は絵をみるときのプロセスに及んだ。
「だから、そのプロセスをそのまま描くというか。絵を実際に見る視界を追った絵、みたいなのを描こうとしてる部分はあります。」
輪郭線を描いているのもそういうことなのだろうか。先生は、露出した山面を遠くから描いた絵の、山と空の境界線を指さした。

「この線も本当はいらないんですよ」
「でもそのほうが絵としておもしろいかなって」
最初いかに「自然であるか」について多く話していた先生は、絵そのものについては絵のセオリーから外れた「不自然さ」のようなものを孕んでいて良いと思っている。むしろ「不自然さを上手く自然に見せること」そこに面白さを見出している。
それはひとえに描く側が、「描く」という行為を通じてキャンバスとやりとりをする中で、偶然起こる化学変化だ。
自然さ・不自然さを楽しむもよし、奈良田先生がどうやって化学変化をつくったか探してみるもよし。これから作品を見る時、考え方が変わりそうなお話を聞くことができた。
文責:タニグチアスカ