山田麻美展 「Interpolation」

山田麻美展「Interpolation」を見た。C.A.P.でお手伝いを始めて早一か月。美術作品に触れる機会は格段に増えたが、新しいジャンルに出会った気持ちだ。Interpolationは「補問」という意味の英単語で、今回の展示に主題として用いられている。

 山田作品は基本的に写真や造形物である。絵画のように好き勝手自分の思い通りに白紙からつくるのではなく、既存の何かに手を入れて・もしくは自分で素材を用意して成型したものだ。ある意味それは制限をもたらすはずだが、彼女はかなり「自由」に作っている。

 白紙が掲示してあるようにみえる作品、「space baskerville 7pt」「space helvetica 6pt」にはその自由さが全面に出ている。白紙に見えるこのふたつの作品は、山田さんがスペースキーを押して「 空白(スペース) 」を打ち込んだものだ。わたしたちは皮肉なことに、空白のみがその場を占めているとき、目に見える形の空白を認知できない。空白は周りに物があって初めて空白と呼べる。

「これは、スペースを打ち込んでも白紙のままになるから認識できないな、と思って作ったのか、白紙を見てここには見えないけれどスペースがあるのかもしれない、と思って作ったのか。どちらですか。」

 山田さんは前者です、と答えてくれた。

「自分は白紙を見てもそこに情報を見出すことはできないな…、と思って作りました。」

 思いついたのはたぶん電車の中、とのこと。

 余白と言えば、二つの額縁が並んでいる作品もある。左の額縁の中には右側4分の1くらいの幅に紙が、右の額縁の中には左側4分の1くらいの部分に同じように紙が設置してあるのだ。つまり、2つの額縁と紙が左右対称のような恰好になっている。タイトルは「用紙のコンポジション」。わたしにはなかなか難しい作品だった。

「用紙のコンポジション」

「これは…どういう意味が込められているのでしょうか…」

ちょっと質問が直球すぎるかしら、と思いながら聞いてみた。

「これは額と額の間に、いわゆる『作品』と呼ばれているものがあるんです」

「何かが描いてある部分は額の間にくるはずで、わたしはその周りの余白部分を額に入れてみた、っていうことで」

言われて頭の中が晴れやかになった。ずっとわたしは何も描かれていない、紙の帯を作品として見ていた。それは決して間違いではない、わたしは余白部分に何かを見出そうとしただけだ。でも、額の間に目に見えぬ作品を夢想するのもまた一つの鑑賞の仕方なのだ。そもそも何か、目に見える形でなければ作品と呼べないのか、そんな不意の穴をつつかれているようにも感じる。  

「time condensation」という作品もおもしろい。時計をプリンタのスキャナにかけ、スキャナが一定の幅を写すことを利用し画面の中に時差をつくっている。時計の秒針はスキャナにかけられている間も動き続けるので出来上がった画像の中では秒針が点線のように切れ切れに、角度を変えて写されていた。それを印刷した画像と、時計の形に切り抜いて文字盤の中に設置したもの。2つが並んで展示される。同じ面に、数秒の間が詰まっていた。

「もともと時計関係の作品が多いんです。先にセッティングだけしておいて、あとは時間に任せたりコンピュータ上のプログラムに任せたりして作ってます。自分は手を入れずに、作品ができていくのを見ているんです。」

 なるほど。スクリプトが画像の任意の場所を丸く切り取って任意の角度回転させてつくった画像たち「RotateEllipseSelection()」シリーズにもその性格が表れているわけだ。

 今回の展覧会にはご本人によるキャプションが用意されており、それを見ると作品をより楽しめる。だが、キャプションを読んだ後でもひとつだけ、見るといまだに不思議な気持ちになる作品があった。

 それは同じ部屋の四つ角を写した正方形の写真がナナメに配置されている作品「quad」だ。後ろの木に沿って、わたしたちの視線はゆるやかに角が写された、4つの写真を追う。なんとなく頭の中にイメージが浮かぶ。わたしは畳に寝っ転がっていて、なんとなく目についた部屋の隅を見まわしているのだ。山田さんにそのような取り留めのない話をしたら、

「この作品は展示に合わせて作り直したんです、画像は元はA4サイズくらいあったと思います」

と教えてくれた。わたしはほんの少し興味をもって聞いてみた。

「山田さんは、人の視線がどこに、どのように集まるかにご興味があるのですか。」

「そうですね…。たしかに作品のどの部分を人がどう見るか気にして作っています。」

わたしはそれっきり何も聞けなくなってしまった。熱心に長いこと四つ角を見ていた。なんだか自分の頭が時間がほしいと言っているような気がしたからだ。

「quad」

 今、この文章を書いていてわかったことがある。わたしは「視線」の話を山田さんにしたとき本当はもっと他のことが言いたかったのかもしれない。彼女が作品を作る時に気にしている「視線」こそ日常に彼女が向けている「視線」なのだ。

 彼女の作品には体温がない。代わりに、そこに立って、ただじっとこちらを見つめてくる、丁寧な観察眼のようなものがある。と、わたしは思っている。雨の日に窓からの鈍い光だけで本の文字を追う視線と似ている。作品を見ていると、こちらを見透かされているような居心地の悪さを感じ、さらにもうしばらく経つとその居心地の悪さと共存できてくる。それは彼女が丁寧に現実や生活を観察している、ということで、その結果作品たちがわたしたちの方を観察しているとも捉えられる。彼女の作品の「視線」はわたしたちの視線ともまた重なる、ちょうど、わたしが今部屋の四つ角をちらちら眺めているように。

 

                            文責:タニグチ アスカ