11月25日
タニグチです。C.A.P.に頻繁に来れている!と思っていた矢先携帯を壊してしまい、またしばらく期間が空いてしまいました…。階段でこけたら携帯もわたしと一緒に階段をころころ転がったようで、踊り場に衝突した途端液晶と本体の境目で真っ二つになってしまわれた、というのが壊れた経緯です。3年8カ月ありがとうXperia…。こうして意図せず携帯なしの生活を丸3日ほどおくったのですが、携帯がないこと自体に苦はないものの連絡がとりにくいことを不便に感じました。悔しいですね。現代っ子じゃんと思わされました。
上野友幸さんのアーティストトー――ク
なんとなく伸ばし棒を増やしたい年頃です。
上野さんは以前にも日記に登場してらっしゃる。今日(11月22日)は工作棟でアーティストトークが開催された。
ご本人から作品の背景や当時のエピソードを聞くことができるので、やっぱりこのアーティストトークやスタジオビジットのイベントは有意義だなと思わされる。人間豊かな様子が観測できるのもいいところだ。上野さんのアーティストトークの超個人的ポイントを3つあげてみることにする。
①実はファンキー上野さん
まず作品を作るときの上野さんが意外にもチャレンジャーでファンキーなことについて。
トークはプロジェクターに大きく上野さんの作品を映し出し、上野さんの隣に質問や補足をするインタビュアー・築山さんをつけて進んでいた。築山さんはご自身も自然から出てきたものを使って作品を作ることが多いので通ずる部分があるらしい。だからこそ逆に突っ込んで聞きたくなる部分も多いらしい。そのやり取りがいいテンポ感を創り出していた。視聴者(?)としてありがたい。
ちょうど画面には波のような模様の大理石と、実際の波の写真が組み合わさって作られた作品が映されていた。
「これはー、実際に写真撮りに行ったんですよね?」築山さんが聞けば
「そうですね。この波の写真ってほぼ真上からじゃないとこういう風に撮れないんですよ」
お?とその場にいた全員がざわついた。
「真上からじゃなかったら、ほら、あきらかに波打ち際みたいな部分が入っちゃうじゃないですか。だから」
「だから、70メーターくらいの崖の上から撮りました」
鳥肌もんである。上野さんは「動画あったよな…」と呟いてフォルダをがさごそした。そのままスクリーンには崖の中腹あたりから撮ったと思われる映像が流れる。いやー怖い。遥か下でざっぱーん、ざっぱーんと砕ける波。まだまだ先のある崖。どんな思いでそこに行ったのか…(たぶんポルトガルの崖とおっしゃっていた、たぶん)。
築山さんは映像を見ながらつぶやいた。
「あれっすね。意外と上野さん、肝座ってますよね。」
めちゃくちゃ場が湧いた。
横の大理石の模様についても築山さんが聞いてみる。
「この…イメージ通りの大理石はどうやって持ってきてるんですか」
「これは…まず宝石屋に通うんですよ。波の写真を撮りためているうちに、同時並行で通って模様をチェックし続けます。それである日ちょうどいい・合いそうな模様の大理石が入ってきたらそれをスライスしてもらって持って帰る、って感じですかね。」
一体どれほどの時間をかけて作品を作っているのか…途方もない時間がかけられている。波と大理石の関係性は一期一会なのだ…。そして何よりおもしろいのが上野さんは作品をきちんと「原産物」で作っているということだとわたしは考える。自分で「収穫」しに行ったり、「買い付け」に行ったり。まるで材料を集めて料理するかのような、そんな日常の営みに作品が組み込まれているおもしろさがある。エピソードからみるに他の作品も丁寧に「調理」されていた。
②土から生まれ、土へ還ること。「自然の絶対性」
上野さん、とにかく自然を愛している。自然を「加工しない」。そのままの姿を持ってきて、自然の中でその「物」が果たしている生き様をそのまま作品に興す作風について自らこのようにお話されていた。
「使いやすいように加工されているものを使ってつくるって実はクリエイティビティではないと思うんです。生きることと作ることが同じでありたい、っていうか。素材を自分で・自分の身体で集めて初めて『つくる』ってことになるのかなと思っています」
生々しいマテリアル感のあるもの―チョウチョや鉛・石などについて「絶対的」という表現を用いたり、山について「別に山で遭難したとしても自分が土に還れるならそれはそれで本望だなと思って」と言ったりする上野さん。
最近は陶芸の勉強をしているらしい。土から作られた土器が実は日本における最古の芸術じゃないかと思い立ったからだという。とにかく土から生まれたものを最上位としているし、自分も最後には土に還りたいという思想がお話の中で一貫して主張されていた。
③日本人としてのアイデンティティ
終盤の話である。上野さんは語った。
「現状現代アートっていう領域では欧米が先行していて、日本はまあ常にそれを追う立場にあるわけですよね」
わたしは授業で扱ったポップアートを思い出していた。篠原有司男がコカ・コーラの作品を模倣したこと。あの頃は模倣したこと自体が新しい意味を作ったけれど、今はもうその時代ではないということだろうか。
「僕は日本が欧米のスタイルを単に追うことは、言葉を選ばずに言えば『ダサい』なって思っていて。日本は欧米の文脈ではなくて、日本人の文脈でいかにアートを作るか問われているんだと思うんです」
心に刺さる言葉だった。苦い。
たとえば。上野さんは伝統工芸品に言及した。「日本の伝統工芸ってすごいんですよ。その工芸が芸術と日常を繋いできたってわかるんです。そういうクオリティのものがゴロゴロあるんですよ」
「床の間とかも日本の文化の特徴だと思うんですけど、あれも「和室に掛け軸を飾る空間をわざわざ設けていた」ってことですよね。それってギャラリーってことじゃないですか。」
その後のベルリンに行ってベルリンのテーマで作品を作ろうと思ったことはなかったか、という質問に対しては上野さんはこう答えていた。「ベルリンで人種問題を取り上げた作品を作ろうとしてみたこともあったけれど、それは「現地の実際に人種問題と接している人たち」の作品に比べたら「圧倒的に弱かった」」。
その感覚はなんとなく知っている。自分たちのことのように血として語れるか・語れないか、の線引きである。そしてそれは作品の強度に直結するという感覚。
そこまで聞いてわたしの中でバラバラだった「上野友幸像」みたいなものがすべて一本の線でつながり始めた。
上野さんは「ヒトが自然から離れないこと・生き死にがすべて土の上で行われること」こそが、日本人の自分が「等身大で追うことのできる」テーマだと考えて、そこに作品のアイデンティティを見出している。この場における「アイデンティティ」とは単に作品の自立性というわけではなくて、ひいては上野さんが人生の信条として寄りかかっていけるモノという意味である。それってすごいことじゃないかと思う。上手く言葉にできているかはわからない申し訳ない。けれど、作品を作ることが上野さんが人生について考えることとイコールになっているように思えて、わたしにはすごく尊いことに思えた。自分という存在を人種として、生き物として、自然の一部として、どのような者と位置付けるか考え続ける・その答えがすべて作品に足跡として残ってきたしこれからも残っていく。アーティストという職が上野さんにとっての天職であるのはそういう理由ではないか、と思った。
自分の文章もそんなに好きではないし、読み返すことも好きではないけれど。これはある記録として。わたしの感じたことの記録としていい味が出た文章じゃないだろうか。
ということにしておく。
田岡さんとト―――ク
実は田岡さんときちんと喋ったことがない。わたしは黄色いのぼりの「田岡和也展」の文字を見てぼんやり考えていた。六甲山に荷車を引いて本を運ぼうとしていた人である。絶対おもしろいに決まっているのに。
CAP Libraryでは田岡さんの個展「田岡ART BOOK FAIR」が開催されていた。いい意味で「個展」というほど堅いものではなく「記録」のようなつまみやすさの催しで、田岡さんが日記のように制作してきたzineたちが展示されているほか、田岡さんが掲載された雑誌・出版物なども自由に読んでOK。もちろん先のzineも手に取って楽しめる。CAP Libraryの空間を生かしたイベントになっているように思う。
わたしはすすすっとLibraryに入って、電気をつけないままの青白い部屋を携帯のカメラにおさめた。いろいろとりどりのzineがなかなかの数並ぶこの写真…とっても良くないですか。最近撮った中では特にお気に入りになった。ひっそりした空間にたしかに何かが息づいている感覚がある。と、田岡さんがLibraryに入ってきた。今日もキャップを被ってらっしゃる。
「あー-良ければぜんぜん電気つけてもらって!」
いきさつを説明しつつ、これは田岡さんとお話するいいタイミングだと思った。こういうわけで初めてきちんとお喋りした様子を少しお届け。
Q.zineってなんですか
じん、と読むらしい。田岡さんのこの小さい本たちがそう呼ばれるものとわたしは初めて知った。田岡さんはたくさん並んでいるzineをひとつ手に取った。元々は難波のベアーズというライブハウスの人がzineを作るのをお手伝いしたとかで、小さい冊子を作る経験をしたのだそうだ。見せてくださったライブハウスの人と作ったzineの1ページ目には架空の住所と架空の名前が書いてあって編集部ができている。大人の粋な遊びって感じがした。田岡さんはいくつか絵を提供したらしい。
Q.田岡さんは山がお好きなんですか
ずっと思っていた話である。TAOKAのサインもAの部分が△になっていて、山っぽいなと思っていたのだ。zineのタイトルも「山とTAOKA」になっている。
「山は趣味なんですよ。登山してます」
なるほどやはりである。どういう経緯でお山に登るようになったんですか?
「それがねー山に目覚めたのは仕事で九州に行ったときに、ほんとうにやることがなさすぎて登山に行ってみたんですよ」
そしたら思いのほか登れておもしろかったのだという。
「ぜんぜん運動とかしてなかったけど案外いけちゃって。おもしろかったんで次の日も行ったんですよ登山」
ここでわたしは驚いた。普通行かないよ二日連続では。少なくともわたしなら一日でやめておく。
「さすがに二日連続で登ると膝が痛くなっちゃって。そしたら道端で会ったおばあさんに漢方をもらったんですよ」
68番です。とのことなので68番の画像を貼ってみる。ピンク。
「飲んだら痛みがマシになって。ありがとうございます、っつって。もうそのおばあさんと会うことはないかなーと思ってたんですけど。後日会社宛てに「イシイヨシコ」って人から手紙が来てて、それがそのおばあさんだったんですよね」
(会社の人たちに総出でいじられたらしい)
「何の縁かイシイヨシコさんは僕の登山の師匠になって、親交が続いてるんです。」
ただ「趣味」と語るにはあまりに濃い内容がやってきてわたしはもう「うおー」「それは…すごいですね」としか喋れなくなっていた。C.A.P.あるあるだと思うのだが、C.A.P.の人は何かしらの縁で現在地にいることが多い。きっと他の大人もそうなのだろうけれど、それにしてもC.A.P.の縁の濃さはどこでも見られるわけじゃない。
「いろんなことがあっておもしろいな、って思えたので。1回登山するごとにそのときあったこととか、拾ったものとかを冊子にして残すようになりました。それがこの本」
もう70を超える数作っているそうで、それだけひとつの興味が長く続くこと、zineを作り続けられていることが素晴らしいと思った。
Q.雑誌たちはなぜ置いてる?
雑誌も多く置かれていたのだが、田岡さんはそのうち数点をパラパラめくってわたしに見せてくれた。めくると田岡さんが取材された記事や、ご家族で掲載されている記事があった。自分自身田岡さんが何をされていて、それがどのような文脈で取りあげられてきたか知る機会がなかったので、雑誌を読めたことも結構おもしろかった。加瀬亮の次のページに田岡さんがぬっと出てこられたときはびっくり。加瀬亮の雑誌を集めていたことがあったからひょっとしたらニアピンだったかもしれない。
最期にはわたしが最近ゼミで何を研究するか迷っているという話題に付き合ってくださった。それこそ山のようにおおらかな人柄だな…と思う。山の話題でおもしろいことがあったらまず田岡さんに報告してみようかなあ、と考えたタニグチである。
今回から日記は二本立てです…本数を増やして投稿できるようにがんばります!