3/8(土)〜23(日)展覧会「ランの繭とカフカと幽霊」

「外在性ロボット」とはなんでしょうか?
たとえば「精神分析」これは、日々の平常心を保ちうるために、ある身体と思考の機能を外在化させて変容させようとするものです。
では「内在性ロボット」とは?
そんなテーマと思想にスタジオアーティストである2組のアーティストが取り組みます。

展覧会「ランの繭とカフカと幽霊」

2025年3月8日(土)〜23日(日)
10:00〜19:00/月曜休館

作品1:カフカと幽霊(superstring)
外在性と内在性は、人間が感知しうる物質的境界線に依存してはいない。
人間が捉えうる限りで身体の外部にも内在性は存在し、その逆もまたあり得る。
外部にある内在性として、技術、都市、文化があげられ、内部にある外在性として、無意識や霊性があげられる。
ジークムント・フロイトは、自らの無意識の発見を、地動説やダーウィンの進化論と並ぶ、思考のパラダイムシフトの1つと考えていた。前者2つが人間という身体を超え出る先での外在性、つまり自然の発見なのだとしたら、フロイトは、人間に内在する外在性を発見したということになる。フロイトの無意識の発見は、人間という物理的境界線の中に外在性が存在することを端的に示している。
それは物理的身体境界というものが3次元的に限られた世界のものであり、人間が知覚しえない高次元体が存在しうる。それはフロイトのいう無意識であり、もしくは霊性とも言えるのではないか。人間の知覚では取り上げきれないからゆえに、その高次元体は人間の内部に存在する。内部にある外部。内と外の浸透とそれの一瞬の観測を、3次元的空間/身体において可能せしめる現象の出現を、superStringは高次元空間を駆使して生じさせる。


作品2:ランの繭(銅金裕司)

– ランの繭、オーキッドコクーン –
 懐かしのオーキソイド。
その原風景を考えることになった。
それはCAPの規則で、ぼくがスタジオにいる以外は電気も暖房も使えないことによる。
 CAPの冬は生きたランには寒すぎるのだ。というのも熱帯性のラン科植物が生きてゆくには最低20℃、亜熱帯の環境が必要である。
 そして、この六甲おろしの世界に対策するのに、ランたちと相談することにした。結果、むかし、コンセプトとして考えた「オーキソイド」に立ち返ることになった。
 かつて「オーキソイド」という名前のランのロボットを制作した。
オーキソイドとはオーキッド(ラン)とアンドロイド(人間もどき)をあわせたものである。
 オーキソイドには2種類ある。外在性と内在性。
 そして、結論から言うとこの問題にむけてランの繭を作ることにしたのである。


外在性と内在性について(銅金裕司/当展覧会企画者)

生物の構造面をみると形態や性質の違う細胞や組織や器官が一つのまとまった形に組み立てられており、それが生体膜によって自然環境とは隔てられた閉じた系をもって活動している。しかし、その機能面をみると、構造面とは逆に開かれた系として生体膜を介して自然環境との間で物質やエネルギーの相互作用が死活を決めている。しかも、外部と関わることによって内部環境の恒常性を維持しているのだ。これは動物も植物も同じである。
さて、現在見られる機械式ロボットも、開発コンセプトに差があるとしても、生物の構造や機能の模倣をその開発目的としているのが普通である。環境から自律した閉じた系を作り、それが環境から情報を得つつそこへ働きかけてゆくという点だ。
ここで、少々飛躍して遡って考えると、おもしろいことにすべての文化の発祥とも農耕や庭園にも、構造的な閉じた系と機能的な開かれた系の模倣を見ることができるだろう。つまり、囲んだ土地や入れ物に特別な構造を作り、特殊な働きをさせるわけである。このようにロボットは農耕的発想を有し、農耕はロボットの別の流儀と考えることができるかもしれない。あながち、このことは、はじめてロボットを構想したカレル・チャペックが園芸人であったこととは無縁ではないだろう。
このように農地や温室は、環境情報をセンサーで感知し、栽培されている植物に好適な生態系を誘導し構成することで環境の恒常性を維持している。このことを、植物(主体)の側から観察すると温室や農地は、主体に外在する環境を維持するロボットであると見ることができる。それに対して、生物は、自身に備わるセンサーから得られる環境情報をもとにして、主体内部に直接働きかけることで環境を変化させてゆくことで恒常性を得ているのだ。生物を真似ようとしている機械式ロボットをこの意味で「内在性ロボット」と呼び、農地や温室を「外在性ロボット」と呼んでみる。
しかしながら、現実に普段私たちが目にする機械式ロボットは、すべての構造がその内部に自律的に組み込まれているとは言い難い。電源はバッテリーに頼っており、入りきらない頭脳が外部に置かれて無線でつながっているものさえあるのが現状である。素材となっている金属の精錬や電力製造の環境負荷など、こうした外部の系まですべてを含めて考えてみると、これを内在性ロボットと呼ぶことには無理があるかもしれない。バッテリーで自律したロボットを見せられることで私たちは騙されている、と言うと怒られるかもしれないが、ともかくこれらのロボットが「内在性ロボット」を指向していることは一応の事実ではあろう。
そしてこの現状での内在性ロボットの問題は、内部に主体となる生物を持っていないことである。生物を用いずに生物的なるものを造り出すことが目的となっているために、内在性ロボットには主体がないのだ。これに対して外在性ロボットは、植物そのものがその主たる構成要素となっており、植物の生命維持そのものが目的となっている。生命維持のためのプログラムは、人間によってときどき書き換えられてゆくことになる。(一般にこれは温室の世話をするという。)内在性ロボットのプログラムは、プログラム自身が学習するように作られているものもあるが、これも不都合があればその外部にいる人間によって書き換えられてゆくことになる。ここで外在性ロボットにおける植物が主体的にプログラムを変化させることはないのだろうか?あるいは人間にプログラムの変更を強いるような行動に出ることはないのだろうか?私たちはそうしたシグナルを見ることができないだけなのではないだろうか?といった疑問が沸き起こる。実際に植物に接している農家の人間達は、こうした植物言葉に毎日耳を傾けているのではないだろうか? 「Orchisoid」は、ランのこうしたシグナルに耳を傾けようとするプロジェクトである。


銅金裕司 × 藤幡正樹(共同制作者)  往復書簡

銅金さん→藤幡さん
 以前、藤幡さんと外在性ロボットと内在性ロボットの話をしていくつか展示作品、オーキソイドたちを作りましたね。内在性なやつをアトムのような個別な感じとして、生物を模した個的なものとして施設栽培、植物工場のようなもので、外在性を農業のような状態をさし、それは大地や耕地に営農して営業するものでした。
 思うに、内在性は生き物の内臓世界でのようなもので、外在性は自然生態系と考えても良いかな、と考えました。
 この線でこないだ流行ったコロナパンデミックを考えてみたら、内在性はワクチン接種を重ねる人為的な世界で、外在性はコロナのめぐるこの世界の在り方かな、と考えました。未開な森を人が引っ掻き回して、コウモリを追い詰め、ウィルスを弾き出してしまうことも含めて。そこで、この外の世界をめぐるコロナウィルス状況、コロナパニックをして、そこでコロナファーストと言ったら怒られました。ただ、いま、コロナワクチン解毒とかなんとかも言われてて、ワクチン接種もいかがなものか?とかと考える向きもあるようです。藤幡さんはワクチン、どうですか?
そこで、もう今回、ささやかですが、外在性な方を少し作ってみて、この辺を考えようかと思います。まあ、どうなるかわかりませんが、まずは藤幡さんに言っとくかなあと考えました。
もちろん藤幡さんが作るような見事な温室インスタレーションなんかはできるはずもありませんが、まあ、ちょっと考えてみる、くらいです。

藤幡さん→銅金さん
内在性はワクチン接種を重ねる人為的な世界で、外在性はコロナのめぐるこの世界の在り方かな、と考えました。未開な森を人が引っ掻き回して、コウモリを追い詰め、…」おもしろいです。しかし、世界を外在性として捉えても人間自身もそこに含まれている。コウモリを追い詰めるのもワクチン作るのも人間だということは、現実はマッチポンプ状態ですね。でも、そこではお金だけが確実に動くという、、、。
 最近身近な人でガンで死ぬ人多くないですか?これってワクチンと関係あるんじゃないか?と言っている人がいますね。コロナのワクチンって、遺伝子の組み換えを使っているわけですよね。(で、正しかったでしょうか?)

(当往復書簡のテキストは今後も追加される可能性があります)


藤幡正樹
世界的メディアアーティスト
1990年、慶應義塾大学環境情報学部専任講師となり、同助教授、教授を歴任。
1980年代初頭からコンピュータを使った作品制作を行う。1990年代からはインタラクティヴな作品を発表。1996年ネットワークをテーマにした作品「Global Interior Project#2」でリンツ、アルス・エレクトロニカでゴールデン・ニカ・グランプリを受賞。
1999年東京藝術大学美術学部教授、2005年から2012年まで映像研究科長を勤め、2015年に自主退職。
東京藝術大学大学院映像研究科の立ち上げに参加し、学科長を勤めた。2010年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。文化庁メディア芸術祭審査員。2016年11月、紫綬褒章を受章。
メディア・アートの黎明期から活躍し、メディア・アート作品をメディアや社会に対する批評性を含むものとして提示し、メディア・アートを芸術の一つのジャンルとして確立することに貢献、また学術的な研究のあり方としても提示した業績は国内外で非常に評価が高い。