今日のC.A.P. その9 Acte Kobe 披露宴編②

8月24日

お久しぶりです。タニグチです。部活や自分の近い人たちの間で新型コロナウイルス感染症がかなり流行していて、C.A.P.にあまり行くことができていません。わたし自身はかなり元気です。そして22日にはまたひとつ歳をとりました。大人になっていく実感があまりないですが、今年もC.A.P.の活動に携わっていきたい次第です…!よろしくお願いいたします、!

さて。こちらActe Kobe披露宴編後編でございます。思い返したり、変な解釈になってないかなと考えたりしていたら(そして大学の最終課題をこなしていたら)、ひと月近く経ってしまいました…続けることが大事かと思うのでゆっくり書きます!

14:50 サックスとパソコン

会場に戻って。林間学校の間、ひとつアーティストさんを見ることができなかった。次のアーティストさんは…?とキョロキョロしても、会場の中央部分には誰も人がいない。代わりに正面から見て一番右、長机に用意された椅子に男の人が座っていた。石上さんというらしいその人は眼鏡をかけていて、パソコンとパソコンに接続された機械の前に座っている。機械と言ったがそんなメカメカしいものではなく、鍵盤ハーモニカのような見た目をしているどちらかというと「ソフト」な印象のする機械だ。

石上さんはその機械をいじって、なにやら音を流しはじめた。後から聞いた話だが石上さんは大阪芸術大学で教鞭をとってらっしゃるらしい。つくづくC.A.P.にはいろんな人が関わっているものだ…。
音はサーとかファーッツというような、いわゆる「騒音」に近い。音階があるような無いような。サウンドトラックになる範疇を少し超えたくらいの「害」がある。低音の衝撃からか、会場を挟み込むように立てられたスピーカーたちの中心部がぶるぶる震えた。

その音の合間を縫うようにサックスの旋律が聞こえてきた。松原さんが中央の椅子にいつのまにか座って、サックスを吹き始めたのだった。松原さんは壮年の男性で、髪には白髪が混じっていた。瞼を閉じて眉間に皺を寄せながら彼はサックスを吹く。細かい装飾音に合わせて忙しなく指が動く。すごい。というかそんな小難しいことを考えなくても、聴いている間ずっときもちいい。脳内がお風呂に使っているみたいな感覚になる。

なによりびっくりするのは、その交わらなさそうな「デジタルに取り込まれたはずの音」と「アナログなサックスの音色」が違和感なく合わさることだ。たぶんそこには音のコーディネートへの考えやこだわりがあるのではなくて、「同じ空間に異質なものが存在することを純粋にたのしむ気持ち」があるのではないかと思う。わたしは軽音楽をかれこれ6年くらいやっているが、その中で最も注意を払うのは「どれだけパート間の異質さを均してひとつの画面にするか」という点だ。それぞれの目立つ部分はもちろん残すのだが、ある点での「調和」に辿り着かなければならない。それがとてもむずかしい。絵を描くときで言えば、色で統一感を出してみたり、光に色をつけてみたり。コラージュをつくるときを想像するのが一番わかりやすいかもしれない。そういう「均し」の作業を絶対に孕むことは誰かとモノをつくるときの前提になっている。しかし、このおふたりにおける作業はそうではない。多少打ち合わせはなさっているのだろうが、「均し」の痕跡はみられないように感じた。各々が自由に好きにやっている。そのうえでお互いに呼応している。

松原さんはサックスに口をつけたまま場内を歩く。最後にかけて石上さんの手元の動きはだんだんと複雑になっていく。きっとふたりはふたりにしかわからない世界にいるのだろうという気がした。

15:10 なんだこれ?!が好きな人たち

つづいてはちょっと変わったパフォーマンスである。
岩淵さんという男のひとが中央の椅子に腰かけた。彼いわく、彼は「なんだこれ?!が好きな人たちのサークル」に所属している、らしい。なんだこれサークル。そのサークルこそ「なんだそれ?!」だ。なんでもその活動内容は人になんだこれ?!と言わせること。今回はその「なんだこれ」の視点からアートを分解した本を朗読するとのことだった。実はこの本―『なんだこれ?!のつくりかた』は先日のアート林間学校でも教科書とされていた本だ。

岩淵さんは「この時間はみなさんの参加型です」と活動紹介のあと、ひとこと付け加えた。

実際どのようにするのだろう…と思っていたが、岩淵さんはかけていた眼鏡をちょいと押し上げながら、お客さんに特に声をかけることもなく本を開く。そして読み始める。

「大きさをかえてみる」

「ひっくりかえしてみる」

「いろんなものを組み合わせてみる」

アートの世界の中で人々に「なんだこれ?!」と思わせたもの・作品たちからヒントを得た、「なんだこれ理論」の数々。フロレンタイン・ホフマン、田中敦子や白髪一雄などの著名な作品が並ぶ。ふむふむ。これを聞きながら考えを巡らせるのはたのしいかもしれない。と思っていたら。

次第に岩淵さん、他の人に文章を読ませ始めた。柴山さんは見せてもらった文章ー「誰もやっていないことをやってみる」と読みながら、羽織っていたカーディガンを裏返して着始める。岩淵さんが本を持ったままじりじりと下がるから、柴山さんは顔は本を向きながら、後ろ手でごそごそと袖を抜いて着直していた。とてもやりにくそうだが、それもみている方はおもしろい。それを見た松原さんは椅子から降りて床にあぐらをかいた。ズボンのポケットからコインを取り出し、床の上に立てて回転させる。Hirosさんはみんなに気づかれないように「みぇーん」「しゅー」と変な音を出していた。わたしは近くにいたので結構聞こえた。
自分も何かやってみようかなと思ったが、ちょうどいいラインのできることが思い浮かばない。きもち床につけていた足を椅子の裏にふくらはぎからくっつけてみた。うーん地味すぎる。(笑)

その後も人を巻き込みつつ「なんだこれ?!」をつくってみる時間が過ぎていった。いろいろな形があるものだ。

15:40 子供たちの夢の跡

林間学校後半戦の取材をしようと工作棟を訪れたが入り口には。なにやら疲れていらっしゃる大塚さんと、水がぶちまけられた痕がたくさん遺されていた。

「あら、子どもたちは…?もう終わっちゃいましたか?」
わたしの訪れた時間は終了までにまだだいぶ余裕があるはずだった。すると大塚さんは
「氷…一瞬で溶けちゃって…」とおっしゃった。すべてを察する。

兵どもが夢の跡、という俳句の一節があるな…と思った限りだ。

「お菓子いれて氷つくるのむずかしいんだよね、、、お菓子が浮いてきちゃうから、まず半分くらいの水にお菓子を入れて氷つくって。氷になったら水を継ぎ足して元の大きさの氷をつくるの…」

ああ…

「ほんと暑すぎて一瞬で溶けたし、強度足りなかったみたいで子供たちが床にぶつけただけで割れちゃって…」

ううううううん。せっかく準備したのに(氷固まるのって結構かかりますよね…)消費があまりにも一瞬だったのだろう、。しかし個人的に夏らしい風景だなと思った。松尾芭蕉が思い出されたのもそういうわけである。

夏草や 兵どもが 夢の跡

15:50 正直者たち

正直者というユニットがわたしの見ることのできた最後のパフォーマンスだった。
いなみさん、カワサキさん、角さんの3人組はフランス開催のActeでもパフォーマンスされたそうだ。昔話をするときの人の顔が今日一日で好きになったなあと思う。

角さんは中央の空いているスペースで身体を使ったパフォーマンスを行い、後のふたりがそれぞれミキサーと何やら立方体のような機械を用いて会場内に音楽を爆音で流した。ほんとうに文字通りの爆音である。音楽と呼べるのかもわたしにはわからない。しかもあの立方体はなんだろう。演奏者(なのだろうか…?)が腕に抱えた立方体を傾けると流れてくる音の音階が変わる。立方体からはたくさんのコードが伸びていて、同じ面に空いた別の穴に配線が返っていた。

角さんは「俺 俺  誰」と随分長い間繰り返していたように思う。

時折激しく動きながら、どこかにやってしまった自分自身を探すように、もしくは取り戻すようにしていた。床に紙を散りばめ、その紙に書いてあることを読んだら口に入れ、しばらくして吐き出す。なかなか刺激的な行動を繰り返す。気づいたら場内が「静か」になっていた。流れてくる音は爆音だが、観客の視線や考えが一点に集まっているような感じがした。そういう意味ですごく静かだったとおもう。

角さんの身のこなしはダンサーのもので、下駄を履いてコーヒーを売っている気のいいおじさんの皮はどこにもなかった。身体・髪の先までエネルギーが巡っているのがわかる。いなみさんとカワサキさんはそんな角さんの一挙手一投足を見逃さず、的確に仕事をする。
パフォーマンスの中身についてはもうあまり書かないことにする。上手くあのカタチを文章にすることができないからだ。

約40分のパフォーマンスはあっという間にすぎた。耳がほんのちょっと遠い。

なぜそのタイミング?と自分でも聞かずにおれないが、わたしは終演後の角さんの元にコーヒーをいただきにいった。例のSummishコーヒーである。

角さんは嫌な顔ひとつせずにコーヒーを準備してくださった。自分はあの長いパフォーマンスが単純に好きだったので、「すごかったです」と感想をお伝えした。それだけ伝えるつもりだったのだが、思わず
「すごく不思議でした。どうなってるんだろうと思いました」
と含みのある言葉が口をついていた。角さんは、ありがとうとわたしに言いつつ

「なに、知性のレイヤードされたものを突き破ってでてきたのがああいう形だっただけなんだ」
と答えた。答え、になっているかはわからなかったが…わたしは考えこんだ。ううむ。まさか答えが返ってくるとは思っていなかったのだがな。角さんはコーヒーの入ったポットを傾けながら言う。
「身体の動きは普段は理性や知性の範囲を出ないだろう、それがこういうときにどうなるかってことさ」
わかったような。わかったような。まあわかったきがする。

後で聞いた話だが、角さんの喋る言葉はSummish Japaneseと呼ばれているそうな。わたしは角ジャパ検定5級なので、あまり彼の真意がわからなくても…しょうがないのだろうか…いや、やっぱり悔しい気がする。

終わりに

わたしは残念ながらここまでのActe Kobe披露宴編しか見られなかった。しかしActeの催しがかなりC.A.P.の性質を表している・親和性の高いものだということはわかった。わたしはC.A.P.のことをツリーハウスだと思っている。前もちらっと書いたかもしれないが。
アートをいう柱を木にしたそこには、いろんな住人が好きなように家を作って、お互いの家を行き来している。そういう組織がC.A.P.だとわたしは考えるのだ。ツリーハウスの集まりがC.A.P.とも言えるし、住人のことを指してC.A.P.とも言えるかもしれない。Acteの催しも同じ。そこにいろんな人が好きに集まって、自分の好きなことで自己紹介をする。別にその結果に見ている人間は一切絡まない。自分が自分をいちばんよく表すために、自分のすきなようにやる、というのが唯一のルールだ。

思えばそういうことを許される機会ってあまりないと思う。少なくともわたしが生きてきた丸20年でさえ、わたしは常に「こうしなければならない」とか「ここまでいかなければならない」とか、到達点や模範を気にしていたと思う。作品を作っても、どういわれるかわからないな~と消してしまったこともある。それはわたしが、自分を貫くことを優先できない種類の人間だからだと思っていた。実際そういう側面もないことはないかもしれないが、C.A.P.に来てからは「それは自分を取り巻く人が作っていたコミュニティの性質だったんじゃないか」と思うことが増えた。だってわたしはC.A.P.に来てから自分のことが少し好きになったように感じる。なぜだかわからないけれど。
C.A.P.には自分のことをだいじにしている人がたくさんいる。そうでないと長年作品を作り続けるなんて到底できない。そういう人たちに囲まれているからわたしも変化したんじゃないだろうかと思う。

Acte Kobe披露宴から少し、自分を大切にしてきた方々の魂を分けてもらったような気がしたわたしでした。